僕の青春時代には、携帯電話なんて画期的な品は存在しませんでした。

したがって通信手段は家の電話。おそるおそる女友達の家に電話して、お父さんが出てこないのを祈ったものです。

話が弾むと自然と長電話になりました。 何時間も平気で話したものです。 最長記録は4時間くらいでしょうか、、、。

ですが今でも思い出すのが、大学時代に大好きだった女の子です。

彼女は近所の幼なじみで、小学生の頃に引っ越す彼女とお別れしました。お別れに、学研の科学誌の付録だった鉱石標本のメノウを渡しました。

その彼女とは高二の頃から年賀状のやりとりでお付き合いが再開し、高校を卒業してから再会致しました。彼女は古手川祐子似の美女に成長していました。

ふたりとも大学生になり、二か月に一度くらいの頻度で会う様になりました。遠距離でしたのでそれが当時は精一杯でした。

僕は大学二年生になり、免許を取りました。その頃の初の愛車がこれです。
彼女は短大を卒業し、ひと足先に社会に出ていました。

そして夏になり、初めて彼女と海に泳ぎに行きました。海もそうですが彼女が眩しかったのを覚えています。

その帰り、大渋滞に遭ってしまいました。 当時は高速道路が今ほど発展しておらず、加太から帰るには一般道しかなかったのです。

刻一刻と過ぎていく時間、、、。

そして、彼女の門限(確か22時だったと思う)を過ぎてしまったのです。 彼女のお父さんを怒らせてしまいました。

あの時、携帯電話さえあれば今帰ってる途中、 と知らせることができたのにと今は思います。 帰りの道中、公衆電話が上手いこと見つからなかったというのがまた運が悪かったです。

それ以降、秋になって梅田で待ち合わせし再会。彼女は、

「こんな風にずっと会えたら良いね。」

と言ってくれました。これは今から思えば、彼女は僕からの告白を待っていたのかもしれません。それに気づいたのは会えなくなってからでした。ゴメン、まだ青二才だった、、、。

そして年を越えると、僕は急病で入院してしまいました。今度は急性肝炎A型でした。

ですが、彼女は一度も見舞いに来ませんでした。退院してから彼女の家に電話しても、親が取り次いでくれませんでした。初めての彼女のときと同様、またもや親が障壁として立ちはだかったのです。

そうして彼女とは会えなくなり、この恋愛は終わりを告げました。

彼女も先日述べた最初の彼女と同様、SNS等でも再会できていません。ですが、今から5年ほど前に風のうわさで彼女のその後がわかりました。僕と会えなくなったあと、社内恋愛で結婚し二人の娘の母親になったそうです。

でも最初の彼女のときと違い、その後幸せになった事がわかっただけでも良かったと今は思っています。彼女のおかげで僕の大学生時代の思い出は光り輝き宝物になっています。

彼女の今後にいつまでも幸多かれ。本当にありがとう、、、。