カテゴリ: 恋愛

今こんな少女漫画を読んでいます。
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切なくなりますね、、、。自分の若かりし頃を思い出します。最初の彼女とは破局し、その後イイ線に行った女性とは全て中途半端。学生時代は複数の女性たちと出逢いましたが、本命ひとりを目がけていて、最終的には全て全滅してしまいました。でも二股三股かけるよりはマシだったと自分に言い聞かせています。深く傷つきましたが。

その経験があったので、ヨメさんのときは速攻でプロポーズ、門限もガッチリ守りました。おかげさまで現在も夫婦でいられています。、、、というか、もう夫婦というよりも戦友だと思っています。この二十年間二人で難局をいくつも乗り越えてきたので。大事にしなければ、、、。

この娘とのデートで行った映画です。
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それまで僕はあまり興味が無かった原田知世さんが、俄然魅力的に見えました。今見ると白いスキーウェアに黒髪がイイ!
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この映画を見て、僕はスキーに興味を持つ様になりました。その当時スキーに行った事があったのは高校の修学旅行でだけでした。↓

ですが、この当時僕は大学生で部活中心の生活をしていて、バイトも土日祝しかやっておらず収入が少なく、費用がかかるスキーなど手が届くスポーツではありませんでした。

ようやく出来る様になったのは社会人になってからでした。移動手段はクルマで当初はチェーンを履いたR32スカイライン。そこからスタッドレスタイヤを履いたR33スカイライン、そして四輪駆動のLR50日産テラノと乗り換えました。その頃にはスノーボードというものも現れ始めていました。

良く行ったのは兵庫の神鍋高原、ハチ北、ちくさ高原、福井のスキージャム勝山、長野の志賀高原、木島平などです。最寄りの神鍋高原に行くときは、宿を湯村温泉にしてそこを起点にゲレンデを目指しました。つまり温泉とスキーの両方を楽しめるのです。神鍋高原にも日帰り入浴可能な温泉があって、スキーで冷えた体を入浴で暖めスッキリすると、大抵僕のクルマに乗った同乗者は帰路お眠りになられたものです。
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ですがこのお金のかかるスポーツ、スキーは結婚してからというもの、寒いところが苦手なヨメさんの影響もあってしなくなり、ゲレンデから遠ざかってしまいました。

あのころはスキーはブームでした。今はそれほどではなく、ゲレンデもリフトも空いているそうですね。20代ではまったスポーツ、スキー。僕の青春の一ページを彩りました。

追記:なお、1987年の映画「私をスキーに連れてって」にはのちにホイチョイプロダクション三部作の「彼女が水着に着替えたら」「波の数だけ抱きしめて」という姉妹作があります。一応DVDは持っているのですが、「私をスキーに」の思い出が鮮烈なために、未だに見る事ができておりません。

僕は中3になったときに、同じ小学校だったUさんとクラスメートになって仲良くなり、僕の気持ちは恋へと発展していきました。

僕は意を決して告白することに致しました。

二学期の中間試験最終日前日、僕は勉強もせずにラブレター書きに四苦八苦致しました。

そして中間試験の最後の試験が終わったとき、僕はUさんに歩み寄りました。そしてラブレターを渡すと、、、

Uさん「何これ、ラブレター?誰に?私に?ウソー。」

と言うと、彼女は意外な行動に出ました。大きな声で、

「みんな聞いて、私ラブレターもらっちゃった!」

女子たち「え?ウソー、誰から?きぼりん君?」

教室は大騒ぎになりました。

僕は頭が真っ白になりながら、ラグビー部の更衣室へとフラフラと歩いていきました。すると、その更衣室でチームメイトの一人が、

「きぼりん、オレ聞いたで。おまえラブレター渡したみたいやな。」

なんで他のクラスのやつが、ついさっきの出来事をもう知っているねん、、、。

こうして僕は全校に恥を晒したうえで、数日後ラブレターの返事をもらいました。

Uさん「きぼりん君ありがとう、でも知っていると思うけど、わたし他に
    好きな人がいるの。」

知っていたら、告白なんてするかよ~、、、、。

この事件をきっかけに、僕は恥を恥だとは思わない様になり、大人しかった性格も一変致しました。

そして、数か月後初めての彼女ができるのでした。
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この日記の直後のお話です。
1988ひと夏の出会い~在中華人民共和国~ : (旧)ハードオフ・ブックオフ・ジャンクオーディオ三昧! (livedoor.blog)
中国から帰国した僕は、同じ大学のカップル1組と僕、そしてもう一人女の子の4人で海に行く計画を立てました。

そして、その当日待ち合わせのなんばCityロケット広場にいると、女の子が一人でやってきました。するとその彼女は、

「あの二人は今日来ないみたいよ。」

えっ、、、それじゃあ二人きりやん。
あとで知った事によると、その来なかったカップルは直前に破局したそうです。

まあいいか、と二人で南海電車で海へと向かい、加太海岸に到着。
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そして彼女がワンピースの水着に着替えたら、、、
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なんというグラマー、実に見事なプロポーションでした(画像はイメージです)。

クラクラッと来ました。オンナは怖ろしい。

眼のやりどころに困りながら、二人で砂浜で寝転んでいました。すると、、、
彼女が僕の手を握ろうとするではないですか!

ですが、、、僕はこの当時、この娘に恋していたのもあり、
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いかんいかん!浮気をしてはイカン!と寝たふりをしました。
今から思えばなんと勿体ない、、、。しょうがないですねまだ子供でした。

そうして何事もなくこの海での一日は終わりました。僕に鮮烈な印象を残して。彼女とはその後進展はありませんでした。

彼女とは大学卒業以来会ってはいませんが、共通の女友達(別れたカップルの片方)を介して彼女のその後がわかりました。彼女はお見合いをして家電量販店の店員と結婚したそうです。特にお付き合いをしたわけではないですが、彼女がずっと幸せであればと願っています。

昨日のこの日記の続きです。

ある日、Janeから僕たち夫婦に結婚式の招待状が届きました。式の場所はメキシコです。

さあどうしよう、、、なんとかメキシコまでの渡航費を二人分捻出し、日本を空路出発致しました。ロスを経由してメキシコプエルトバジャルタへ。ここは日本人が一人もいないビーチリゾートでした。恐らく僕たち夫妻が一番遠距離からやってきた来賓でしょう。

彼女の結婚式は夕暮れの砂浜で行われました。新郎が待つ簡易的に作られた祭壇に、Janeは友人に手を添えられてやってきました。そして神父の前で永遠の愛を誓いました。
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そこから披露宴が始まり、僕は簡単なスピーチを英語で致しました。

「皆様こんばんは。僕は日本の伝統古武道をやっていて、この披露宴で披露しようと思っていましたが。刀を機内に持ち込むことができなかたので、今晩は出来ません。」

欧米人の方々にウケました。

その後ダンスパーティがあったり、その次の日にメキシコ観光をしたり、ホームパーティがあるなど今まで経験した中では一番の派手婚でした。

そして帰国の途に就こうとしたとき、僕はプエルトバジャルタの空港で下痢をもよおしました。機内では発熱し、ロスで救急車でER救命救急に運ばれました。ロスから関空までの機内では激しい腹痛に遭い、関空から直接またもや救急車で病院に直行、一週間入院しました。食中毒でした。

「ひどい目に遭ったなぁ。」

と思い症状も収まり退院し、帰宅してパソコンを開くと、披露宴に参加した一人からメールが届いていました。

「きぼりん大丈夫か、あの結婚式に参加した面々で多数食中毒が起こっているぞ。」

中南米で働いていたことがある姉のダンナが僕に言いました。

「それはね、モンテヅマの復讐という食中毒だよ。」

なんだそれ?説明を聞くと、メキシコインカ帝国最後の皇帝モンテヅマが西洋に侵略された恨みに、現代でも食中毒として西洋人に復讐しているのだと。僕は思いました。

「僕は東洋人やん、、、。」

でも、メールの返信には、

「僕らはなんとも無かったよ。」

と記しました。なぜなら、一番遠くから結婚式に参列した僕らまで食中毒になった、とJaneが知ったら悲しむから、と思ったからです。

今、Janeは二人の娘に恵まれ、彼とアメリカに住んでいます。太平洋を挟んでいますが、いつかまた会う機会があるでしょう。それまではしばしのお別れ、、、。

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